島の伝説

本島伝説

園の洲(そののす)

 約350年前、本島の福田というところに代官がおりました。代官の厳しい年貢の取り立てに困った村人たちは、3月3日のひな祭りの日に代官を沖の砂浜へ潮干狩に誘い出し、そこで酒宴を開きました。その後、村人たちは酒に酔って眠った代官を一人砂浜に置き去りにして船で帰って行きました。一人残された代官は帰るすべもなく、ついには溺れ死んでしまいました。
 代官には、お園という一人娘がおり、このことを知ったお園は、洲の見える岬に駆け登り断崖に突き出ている松の木にすがりつき、洲を見つめたまま泣き崩れてしまいました。翌朝、お園の姿は見当たらず、断崖から身を投げたのか松の根元には草履だけが残されていました。
 それから、お園がすがりついた松を「こがれ松」、沖の洲を「園の洲」と呼ぶようになりました。また、このことを哀れに思った村人たちは、3月3日にはひな祭りをしなくなったということです。

天狗の足跡(てんぐのあしあと)

 遠い昔の話です。本島にある遠見山(とおみやま)はたいそう見晴らしのきく山です。その山の中腹に「天狗の足跡」と呼ばれる大きな岩があります。
瀬戸内海の島々にはたくさんの天狗が住んでおり四国はもとより中国地方まで飛び回っておったそうです。
 ある時、丸亀城下に住む子供が神隠しに遭い、家族のものが八方手を尽くして探しましたが、どうしても見つかりませんでした。そこで古老達に相談しましたところ、失せものや家出人などにご利益があるという佐柳島(さなぎじま)(多度津)の大天狗さんに願掛けに出かけました。
 それから3日もたったころです。あんなに捜していた子供が無事、父母のもとへ帰ってきました。その子供にいろいろ尋ねましたところ子供の言う事には、「夕方、堀の近くで遊んでたら、急に目の前が暗くなって気がついたら、本島の弁天島におった。そこへ、大きな天狗さんがやってきて、家につれて帰ってやるから背中に乗りな」と云うた。それから、弁天島を飛び上り、遠見山の大岩に片足を踏ん張ってその勢いで丸亀のお城の下まで連れてきてくれたという伝説です。

ゆるぎ岩観音様(西国三十三観音霊場めぐり 1番札所)

 岩に彫られた如意輪観音はその頬に手をついていた姿から歯痛の仏様として親しまれ、またその上に乗った大岩が指1本で揺らぐところからその名前がついた。
 昔のお話です。生の浜から少し入ったところに、「ゆるぎ岩観音様」と呼ばれる珍しい岩があります。岩には、磨崖仏(まがいぶつ)で如意輪観音(にょいりんかんぜおん)が彫られ、島内の西国第1番札所になっております。
 この観音様は、「歯いたの神さま」と云われ広く信仰されております。歯で苦しんでいる人たちがやってきて岩の前にひざまずき、手を合わせ「観音さま、歯がいたくて困っております。どうかお助けください。」といって先にあがっていますお線香の灰を頂いて帰り、痛い歯の頬になすりつけます。すると、不思議なことに一晩のうちに、どんな痛みも嘘のようにとれてしまうそうです。 このお礼には、お線香を倍にして持っていくならわしになっています。歯痛にご利益があるものと見えまして、お線香の煙がいつも絶えなかったそうです。

松風・村雨 (須磨の写絵)

 平安の昔、笠島城の殿様に二人の美しくて賢い娘がおりました。父母に愛されていましたが、姉7才、妹5才のとき、母が亡くなり、父は後妻を迎えました。
 継母は男児が生まれると、姉妹を虐待するようになりました。乳母は正視できず、高松に住む兄に託し、屋島に住まわせました。
 継母は兄に頼んで、乳母の兄を攻め滅ぼし、姉妹を殺そうとしました。危うく逃れた姉妹は須磨の浦にたどりつき、名主の下で海女と共に潮汲みをする悲しい生活を過ごしていました。
 伊勢物語で知られた在原業平の兄で歌人でもあり小倉百人一首に名を残す在原行平(ありわらのゆきひら)という貴族が文徳天皇の行いを諫めたところ怒りをかい、須磨に流されてしまいました。そこで姉妹に出会った行平は、松風まつかぜ・村雨むらさめと名をつけ側に置き愛しました。
 幸せな日々を送っていた姉妹ですが、行平が赦免され、二人に烏帽子と狩衣を与えて京へ戻ると、姉妹の行方は分からなくなってしまいました。
 長い時が過ぎ、旅の僧が須磨を訪れたとき、二人の美しい姫に出会いました。二人から愛しい人に恋い焦がれる話を聞きましたが、それは成仏できていない松風(まつかぜ)・村雨(むらさめ)でした。僧は手厚く弔い、二人を極楽へ送り届けました。
 この話は、「須磨の写絵(うつしえ)」という歌舞伎や、謡曲、浄瑠璃となって今に伝わり、須磨には二人が晩年を過ごしたと伝わる所にお堂や、墓が残ります。

絵:月岡芳年

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